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高台寺執事 後藤典生
R I K I Z Oの抽象画に興味をもち禅寺での展覧会も面白いと考えた。 R I K I Z O
の作品から仏教の心の一部を感じたからである。
「匂い」は今日では香りを意味する人が多いが、仏教では鮮やかな色彩コントラストを意味する。 紅葉の季節また桜の季節など寺院が色彩を大切にするのがそうであり、それは生と死に通ずるものである。
人生は緊張ばかりではなく、ほっとした安らぎも必要であり、それが「間」である。
喜び、賛嘆、感動がなければ人生ではない、それを「あわれ」という。
仏教では一定の形を否定し、定まった生き方などはない、それを「不均斉」という。
説明などいらない、感覚的なものを「孤高」という。
深さ極まりないものを「幽玄」といい、ものに囚われないことを「脱俗」という。
身の騒ぎを絶することを「静寂」という。
RIKIZOの作品から私が感じたことは正に仏教の心であった。 RIKIZOはそのような意味をもって描いておられるのではないかもしれないが、私はRIKIZOの作品が寺院にあうという思いを強く持っている。
ローレンス・スミス,ロンドン大英博物館日本美術名誉顧問
高台寺の名高い,由緒ある建物内部を使って,深尾力三Fukao Rikizoの画業が展覧に供されるのを喜ぶ理由は三つある.ひとつは,私にとってRIKIZOが,長きにわたり敬愛してきた,かけがえのない芸術家であること.もうひとつは彼の作品群が,展示の背景となる伝統的な仏教のコンテクストに,実にぴったり適合すると思われてならないこと.そして三番目は,この展覧会が日本の文化と国際的な文化,両者それぞれの表現力の,重要かつまたとない歴史的瞬間における出会いをしるしづけるものとなることである.
RIKIZOの芸術家としてのキャリアを追い,文章を書き続けて,もう何年になる.始めから私は彼の絵画の物理的(フィジカル)な均衡(バランス)にたえず讃嘆を惜しまなかった.作品の物理的なスケールが増大するにつれて,ますます確固たるものとなるように思われる均衡である.「均衡(バランス)」という言葉で,私は各々の作品において,そこに現出する形態の間に存在すると感じられる,不可避の関係性という感覚を意味しているつもりだ.もちろんある意味でこれは,成功した芸術作品の場合には,必ず見て取れるものであるにちがいない.けれどもより日本的な意味で,RIKIZOの均衡は東アジアの書道(カリグラフィー)の均衡にきわめて近いものであろうと,私は考えている.実際,彼の作品に接して最初に気づいたことのひとつは,しばしば黒で描かれる,執拗なまでに長く延びた形態が,微妙ではあるがまざまざと,漢字の画(かく)を思わせることだった.楷書でよく見られる,急に方向を変える漢字の画である.事実,彼の創る大きなパネルは,まるで夢の中で見る,書かれた文字の拡大精査であるかのような印象をしばしば感じさせる.これこそが彼の仕事を,高台寺という濃密な日本的環境に,これほど調和を保って適応させる要素のひとつであろう.
もっとも,書の本質は白地に黒という点にあるという反論がなされるかもしれない.たしかにRIKIZOの絵画は,その多くが赤地に黒,あるいは青ないし緑の地に黒であり,近年は赤地に赤のものもある.けれどもその観点からの反論は,もっと幅の広いコンテクストを見失わせることになりかねない.つまりこれらの配色は,すべて相対立するものの間での緊張を,すなわち暗さと明るさ,存在と無の間の緊張を表わすものであるが,そのような緊張は主要なすべての宗教,そして哲学の関心事そのものなのだ.RIKIZOはその作品を通じて,およそ真剣な芸術家であれば誰もが,それぞれさまざまなやり方で行なっているように,こうした深奥の探求を続けている.だから私にとって,彼の作品が偉大な仏教寺院にふさわしいと見なされるようになったことは,少しも驚くにはあたらない.そしてさらに,この展覧会を訪れる人々は,彼の赤や黒の表面が,決して平板でないことに気づくだろう.伝統的な襖絵や屏風の金箔地のように,その肌理(きめ)は複雑かつ多様で,一日の時の進行にしたがって変化する光のさまざまな外観(アスペクト)を捉えきる.これは仏教的思考の中心にあって,「あはれ(あわれ)」という語によって,特殊日本的な表現のなされていた,あの無常ということの視覚化である.さらに気づかされるのは,RIKIZOの作品はすべて,静的であると同時に動いているということだ.その作品は三次元のキャンヴァスという物理的な制約を越えて,見る人の目をたえず,かつて何が起こったのか,そしてこれから何が起こるのかを探ることへと導いていく.実際,作品の中には,あたかも自身の物理的現実に挑戦するかのように,キャンバスの縁をはみ出て,さまようものがある.これは無常ということと,私たちの体験するものの即時性との両方の性質を帯びるものであり,そしてこのこともまた,すべての真剣な芸術の中心に存在するものであろう.
ここまで私はある特定の芸術家の芸術について語ってきた.けれどもこの展覧会にはこれまで例のない,きわめて特異なものがあり,私は美術史家として,そのことがもっとも意味深いものであると信じている.それは純粋に抽象的な絵画が仏教寺院のために選ばれたということではない.頻繁とはいえないまでも前例のあることだからだ.それよりむしろ,150年に及ぶ日本の芸術家たちの精力的かつ目覚ましい西欧流の油彩の追求の歴史からすると,驚くべきことかもしれないが,今回初めて,こうした技術によってキャンヴァスに描かれた絵画が,高台寺のような伝統的宗教建築の内部で用いられたのである.これまで用いられてきたのは,紙か絹布だった.けれども今回の展示のために,RIKIZOは襖絵や掛け軸,そして小さな屏風絵にも適用できるような作品を生みだすのに,多大な労力を注いだ.これは画家だけではなく,表具師や,そしてもちろん寺院関係者等の想像力と創意を必要としたのだった.
私たちは,ふたつの偉大な芸術的伝統の出会いという歴史的瞬間に立ち会っているのだ.大胆でなければありえなかった試みだが,その成果は,美しく,かつ長く記憶に留められるものであり,想像〔革新〕的で勇気ある実験としてだけではなく,日本美術の豊かで新しい流派の始まりを告げるものとしても記憶されることだろう.
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